ダーウインの足跡
ウルグアイのソリアノ県メルセデス市の郊外60kmにダーウイン村と名づけられた集落がある。ここはかってダーウインがラプラタの内陸部で化石の調査に行った際に、農家の人が化石を所持しているというのを聞き、訪れた場所であるとされている。ダーウインの記録によると"リオネグロに注ぐサランヂス川の小さな流れに沿ったある農家の付近に巨人の骨があるうわさを聞いて、主人に案内されて現場に赴き、18ペンスでトキゾドンの頭骨を買った。これは発見された当時は完全なものだったが、子供たちが石で歯を打ち落とし、その後も石投げの的にしていた。"と記録している。しかし、現在のサランジス川のリオネグロへの河口はダ-ウイン村からさらに100Km近く内陸部に入った場所である。

このダーウイン村では、200人以下の住人が現在でも主として周辺の広大な農場の小作人、管理人、メイドなどに働きにでている。電気、駐在所、教会などが一応あり、車も入ることができるが、今も19世紀の生活が活きている静謐な村である。集落からやや離れ、国道14号線近くにある学校の先生はメルセデス市の出身で、ダーウインに関する知識も持っていた。
コロニアデルサクラメントについてのダーウインの印象は"石の多い岬の上にあって、モンテビデオに似て作られている。大いに要塞化しているがその要塞も町もともにブラジル戦争にはひどく損害を被った。町はきわめて古い。街路の不規則なことと、それを囲むオレンジや桃の古木の並木は絵のような眺めである。教会堂はまれにみる廃墟で火薬庫にされていて、リオプラタに幾万回となくある雷雨の際の落雷にあったのであろう"と書いているが、今でも全く同じような印象を受ける。但し教会は再建されており、教会として使われている。町全体が文化遺産という印象であった。
シエラデルペドロフラコは現在でもウルグアイの最も代表的場牧場地帯である。ダーウインはこの地方について"至る所馬腹におよぶほどの強いが見事な草に覆われている。しかし数平方キロにわたって一頭の牛も見かけないところもある。良く繁殖させればおそらく驚くほどの家畜を収容することが可能であろう。シエーラからリオニグロの眺めは,幅の広い、深くて流れの速い河が岩石のあらわな眼下をうねり、森林の帯が、流路に従って続き、草原の起伏が遥かに地平線を限っていた。"としている。現在では多数の乳牛や羊の見事な牧場となり、当時をそのまま偲ばせる。
さて結論に移ろう。ダーウインがビーグル号航海記の中で、160年前のウルグアイの鳥類と生息する環境について書いた情景は、都市空間がやや広がったことをのぞけば、今でも全く変わっていなかった。信じられないことに、160年間ウルグアイの自然環境になんの変化もなかったのである。これはウルグアイが工業化を選択せず、モンテビデオの一部を除けば自分の国内には大きな煙突は立てない方針を貫いてきたおかげである。それが出来た畜産資源の豊かさ、言い換えれば自然環境資源と人口の比率が適正に保たれた結果であるといえる。ハドソンが心配した北米、ニュージーランド、オーストラリアではたくさんの動植物が絶滅し、遅ればせながら、現在その保護が盛んに行われているが、それらの国でも家畜の形成した草原があたかも自然そのものであるかのように成熟し、現代のツーリストを引きつけている。パンパでも1500年代以前の生物と自然環境はさておき、家畜が導入されてから変化した自然が300年ほどで極限の遷移を示し、その後はほとんど変化がなかったと考えるのが自然ではなかろうか。1936年にハドソンの旧家を訪ねたハドソンの親友カニンガム・グレアは、その地がハドソンの小説に書かれたのとほとんど変わっていなかったと書いている。但し、さらに60年を経過した現在、キルメスは大ブエノスアイレスに飲み込まれ、小さな家が密集する薄汚れた町となっている。